病は普通、好ましくないもの、不幸なこと、つらい体験、みじめで嫌なこととして受け取られがちである。確かに、病気より
健康なほうが、仕事をしたり勉強をしたりするためには好都合である。また、健康であれば、自由に遊び回ることもできる。
しかし、病気のもつプラスの側面というものも無視できない。
C子さんの場合、大学時代の成績が良く、一流の会社に入社した。だれでもが入りたくなるような会社の、花形の部署
に就職した。その時は友人からもうらやましがられ、祝福された門出のように見えた。しかし、それも束の間。そこには、過
酷な労働が待ち構えていた。毎日毎日、数字とにらめっこをしている自分に気づいたとき、C子さんは急に空虚感に襲わ
れることになる。こんなことでは、自分の人生がメチャクチャになるかもしれない。なんとかしなければと焦れば焦るほど彼女
は落ち込んでいった。
C子さんは主治医に対して、「会社は、私の人格や人間そのものについては全く関心を持ってくれません。ただ能率が
上がっているか否かということだけで私を評価しています。命令した仕事をどれだけ早く正確に処理したかということで、その
人間の価値が決められ、待遇も決まってしまいます」と述る。「私はそのような効率中心の競争社会の中で生きていくこと
に疲れました。このまま仕事を続けていったら、気が変になってしまうかもしれません」と。そこで主治医は、「思い切ってしば
らく休養したらどうでしょうか。そして、自分というものをもう少しじっくり見つめ直して、どう生きるか、人生設計の見直しをし
てみませんか」と助言した。
彼女は自宅で静養中、寝たきりになっていた祖父の介護をした。食事を食べさせたり、おしめを換えたり、マヒした手足
を動かすのを手伝うなど、リハビリの手助けもした。祖父は涙を流して、孫娘の介護を喜んだ。このころから彼女の精神状
態は回復の兆しが見られるようになった。
C子さんは「病」のもつメッセージに真剣に耳を傾け始めた。そのメッセージを彼女は自分のライフ・スタイルの変更を迫る
神の声として受け取った。一流大学を出て、一流会社に入り、経済的に豊かな生活を送るといった、だれでもがうらやま
しいと考える生き方に「病」のほうがマッタをかけ、反省を促したと信じた。
箴言に、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜
びが悲しみとなる」(14・12,13)ということばがある。大多数の人は、前途が保証されている安全な会社に就職すれば
幸福が約束されていると考える。しかし、前途がまっすぐなようでも、あげくの果てに死への道となることがあると、聖書は警
告する。表面的にはキラキラ輝いて見える仕事が、やがて死への道をたどる場合があるということは、まことに恐ろしいこと
だ。
C子さんは「病」というメッセージを通して、そのことを悟った。つまり、「病」はC子さんにとっては「神さまの声」だった。彼女
はこれまで、自分の心の奥底に隠されていた神さまのご意志を、病という出来事を通して示された。自宅で静養中、祖
父の介護を通して、悲しみが喜びに変わる体験をもった。彼女が一流大学や一流企業に入った喜びは、数年のうちに悲
しみに変わり、その悲しみは介護体験を通して、他者に感謝されることへの喜びへと変わっていった。
(中略)
C子さんは「うつ病」という「病」からのメッセージを素直に受け止め、これまでの生き方を見直し、その生活に別れを告
げ、現在、社会福祉関係の専門学校に通い始めている。彼女は「病気になって、初めて人に仕えることの喜びを味わ
い、自分の使命というものがおぼろげながら見えてきたように思えます」と語った。
『百万人の福音』 平山正美 1997年 4月号
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